ゲッセマネの祈りに込められた救世主の思い | 家庭連合の信者が幸福を科学すると

ゲッセマネの祈りに込められた救世主の思い

$幸福の科学を統一教会の信者が見ると-ゲツセマネの祈り

ゲツセマネの祈りは、救世主イエス・キリストが、オリーブ山のふもとにあるゲツセマネの園で、十字架刑に処せられる前夜祈った祈りである。4福音書すべてに記されている。「オリーブ山の祈り」とも呼ばれる。(Wikipediaより)

「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」

これを、さすがのイエス・キリストも死を恐れたのだと、
人間的な弱さとして解釈する人も多い。

これは、「なぜ予言には両面があるのか」で書いたように
神の願いが成就するかしないかは
神の力だけではなされない、
イエスの力だけでもなされない、
当時の人々が、イエスを待ち望んだ救世主として受け入れてこそ成就する

この原理原則を知ればはっきりとわかる。

「この杯」とは十字架のことである。

「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」

イエスは死が恐ろしかったのか?
十字架にかかるのが恐ろしかったのか?

違う。

イエスは十字架が恐ろしかったのではなく
自らの死によって神の願いが果たされないことを恐れたのだ。

救世主を送ることによって果たそうとされた神の理想実現。
地上のユートピア建設の理想、
それが当時の人々の不信によってくじかれてしまう。

ひとり子の無残な死を目の当たりにするならば、
親である神の悲しみ、絶望はいかほどか?
それがイエスにはあまりにもよく分かるので
なんとか杯を過ぎ去さらせ、生きて神の願いを果たす道はないものか?
と身悶えしながら祈られたのである。

聖書には「額から血の汗が流れるほど祈られた」とある。

弟子たちはイエスの深刻さも知らず、疲れのままに眠っていた。
生命をかけて、死の道をもイエスと共に行こう
という弟子はいなかったのである。

救世主を通してなそうとされた神の計画は
これから何千年延長してしまうだろう?

自分の後を従ってくる信徒たちは
どれほど殉教の血を流さなければならないだろうか?

自分を否定したイスラエルの民は
今後どのような運命をたどるのだろう?

これからも争いの絶えない罪悪の歴史が
どれほど繰り返されるのだろう?

十字架を目前にしたイエス・キリストには
以後2000年間に繰り広げられる悲惨な歴史が
ありありと見えていたはずである。

きっとそのような、
親なる神を愛し、人類を愛するがゆえの、
悲壮な祈りだったのではないか?

ゲッセマネの祈りは、
個人的な悲しみや恐怖ではない、
どこまでも全てに責任をもつ救世主であるゆえの祈りだったのだ。

しかし、わたしの思いのままにではなく、
みこころのままになさって下さい
」という祈りの言葉には、
最善の限りを尽くすが、その結果は神に委ね従うという
最高の信仰の境地が表れている。

私たちも絶体絶命の境地にたったとき
こう祈ってみれば、イエスの心情の一端に触れることができるだろう。


ところで1996年ごろだったか、
幸福の科学の支部で聞いた大川隆法氏の説法、
「私はすでに仏陀、そしてイエス・キリストの悟りを越ええたと自負しております」。

バカも休み休みに言え!(怒)




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