批判に過剰反応しすぎでは? | 家庭連合の信者が幸福を科学すると

批判に過剰反応しすぎでは?

信仰の道に試練はつきものだ。

ちょっとの試練、自分が否定されることで、ジタバタする人がいる。

少し悪口を言われただけで逆上してキレる人もいる。

マスコミにほんのすこし批判されただけで大騒ぎする教祖がいて、大騒ぎする団体がある。
それは自らの器の小ささ、信仰の幼さを証明している以外の何物でもない。

信仰を持たない人と、信仰を持つ人の違いは
このようなときにどのような態度をとるかに表れるのではないか?

救世主イエス・キリストの歩みを振り返ると、3段階の試練があった。

外的試練、内的試練、そして真の試練だ。

$幸福の科学を統一教会の信者が見ると

(1)まず、外的な試練。
これは目に見えるカタチでの試練である。宗教指導者や国など、既成の勢力からの大迫害である。
イエスは世を惑わしたという罪で、十字架という極刑に科せられた。

外的な試練はひどかったが、イエスの心は穏やかだった。イエスと共にする弟子たちがいたからだ。弟子たちの存在がどれほど心強かっただろう。

(2)次に内的な試練である。それは身近な者、弟子たちや家族の不信であり、裏切りである。目に見える形の外からの迫害よりも、精神的にはもっとダメージは大きい。「命をかけて運命を共にする」と誓った弟子たちが、自分の身が危うくなったとたん「私はあの人を知らない」と言って否定し逃げ出した。イエスの心はどれほど痛んだことだろう。

弟子たちが裏切り去っていった時、イエスの心の支えはただひとつ、すべてをご存知の父なる神であった。

(3)そして最後の試練がある。十字架の苦痛の絶頂で、それまでイエスと共におられた神との交流が切れる。神の姿が見えなくなる。「我が神よ、我が神よ。我を見捨てたもうか?」とイエスは思わず叫んだ。

最後の真の試練は、生涯共にあってくださり、それまで一問一答していた神から「見捨てられる」という試練だったのだ。

祈っても通じない。求めても答えがない。

愛するひとり子に対する、人間のあまりにもむごい仕打ちに、神は思わず目を背けられたのか?

しかしここでイエスは気をとりなして祈る。「すべてをあなたの御手にゆだねます」
神から見捨てられても、最期は感謝で越えていったイエス。
助けたくても助けることのできない悲しい神の事情、心情をありありと察していたのかもしれない。

最期は真の試練を越えて、真の神の子であることを証明した。


使命が大きければ大きいほど、また受ける試練も大きい。
凡人には計り知れない境地だが、
程度の差はあれ、また宗教は違っても、
信仰の道を行こうとしたときに我々も、(外)→(内)→(真)と、同じような試練を通過するのではないか?


果たして自分は、どのくらいの試練まで越えることができるだろうか?

ささいな事で心が揺れたり、怒ったり、悪口を言う相手を非難するのではなく、
真の信仰者らしく、
でんと構えて不動の境地でいられるそんな人物を目指したいものだ。

人の悪口なんて、まだまだ外的な試練にすぎないのだから。





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