日本的な仏教文化の限界 | 家庭連合の信者が幸福を科学すると

日本的な仏教文化の限界

昨日の記事「良心は拘束されている」に
いつも率直なウィルさんから
またズバリなコメントをいただいた。


「良心に逆行する生き方
というのが
よく分かりませんでした…
法律を犯すようなことを
する

という意味でしょうか?

少なくとも
自分のまわりには
犯罪を犯すような方は
いませんし

よい人ばかりで
みんな良心にしたがって
生きているように
みえるのですが…」



そう、まったくもってその通りなんだ。

「良心的に生きている」
「犯罪をおかすようなことはしていない」

これが平均的日本人の感覚だと思う。

まわりに迷惑をかけず
善良な市民として生きている。

そこそこの常識は皆わきまえている。


神道と仏教がミックスした日本独特の文化の
完成形と言えるかもしれない。

調和を求め
平均的であることを求める。

きわめて理性的である。


中東の砂漠のような厳しい環境でもないので
日本では神を信じていなくても
生きていくのに困ることはない。

海に囲まれた島国の
優しい豊かな自然のなかで
平和に生きてきた歴史がある。

125代の続いてきた天皇家の例一つをとっても
世界に稀なるものだ。

日本には高度な精神文明が
築かれてきたと思う。


ただし、日本的な仏教文化の限界もある。

唯一絶対の神を信じていないので
絶対的な善というものも存在しない。

善悪が曖昧であり、空気に流されやすい。
むしろ世間の目が、善悪の基準だったりする。


たとえばキリスト教では
ひとつの絶対善の基準がある。

それはイエス・キリストの生き様だ。

一貫して言行一致を貫かれた。
自分の敵をも愛し許す神の愛を説き、
その言葉を行動で示された。

この神の子としての絶対的な基準を見た時に、
自分自身のそうではない姿を発見するのだ。

神の子イエス・キリストという基準があるから
その比較で、初めてそうではない自分に気づく。


言行一致しているか?

心と体が一つになっているか?

隣人を愛することができているか?

人の良心を絶対的に信じ、許し、愛することが
できているか?


自分が気づく気づかないにかかわらず、
良心」はまちがいなくその基準を目指しているし
そうできた時に本当の魂の喜びを感じることができる。

「良心に逆行する生き方」というのは
法律を犯すような生き方というのではなく
人間としての理想を忘れ
現実に流され、妥協して生きる生き方
と言ったほうがいいのかもしれない。


日本的な仏教文化では
善悪があいまいなぶんだけ、
「まあまあ、いいじゃないか」と悪に対しても甘く
悪を繁殖させることもありえるのだ。




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ウィル

お付き合い
ありがとうございます

なるほど

キリスト教において
良心に逆行する生き方
というのは

キリストの生き様に
反するような
思いや言動
というわけですね

言いかえれば

キリスト教において
良心に従って生きるとは

思いにおいても
言動においても

キリストを見習って
生きることだと
理解しました


心に思っていることまで
常に良心的であるひとは
なかなかいないかも
しれませんね


ここで

以前お話にありました
悪魔や悪霊の存在を
考えますと

悪魔や悪霊が
いなければ

だれもが
良心に従って生きられる

つまり
だれもが
キリストのような心で
キリストのように
生きられる

と理解しました

やはり
悪魔や悪霊の存在理由が
知りたいところです

2013/08/08 Thu 22:34 | URL

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