疲れた者、重荷を背負うものは私のもとにきなさい | 家庭連合の信者が幸福を科学すると

疲れた者、重荷を背負うものは私のもとにきなさい

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

マタイによる福音書の11章。あまりにも有名なイエス・キリストの言葉。
キリスト教会の入り口に、この聖句が掲げられているのを見たことがある人は多いと思う。

ふとしたことでこの聖句が目に止まり、涙がでそうになった。

重荷とは何であろうか?
仏教的に言えば「四苦八苦」というような、人生の思うようにならないことがあるだろう。

生・老・病・死の四つの思うがままにならないことに加え、
愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離すること
怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと
(Wikipedia)

これらの苦しみ。
しかしそれ以上に人生の重荷になるものがある。
それは、自分自身の良心の呵責である。

忘れたようでも忘れらない。いっときごまかせたとしても、ごまかしきることはできない。
人が気づいていなくても、自分自身はよく知っている。
罪にまみれていたとしても、本当の自分はそうではない!という魂の叫びがある。
誰を責めるのでもない。そのことによって責められるのは自分自身だからだ。

この良心の呵責を、誰が救ってくれるのだろうか?

$幸福の科学を統一教会の信者が見ると

それは救世主キリストである。

罪なき方として生まれ、神から許す権限を授かった方である。
罪に勝利された方である。邪心のない方である。
その方の許しによって、初めて自分自身を許すことができる。
はじめて良心の呵責から解放される。

それは自らに新しい生命を与えられたのと同じである。

そして心の底から、二度と過ちは犯すまい、
良心の呵責に苦しむような生き方はするまい、
と自ずと誓うようになる。

良心にしたがって、
影のない、隠し事のない人生を堂々と生きることが出来れば
それが最高に幸せな人生であろう。

恐怖も不安もない。平安と喜びと希望がある人生だ。
まさに「魂に休みが与えられる」人生だ。


幸福の科学は仏教なので、このようなキリスト教的な世界はわかりづらいかもしれないが・・・・。

そんな考え方もあるのかと、少しでも参考になれば幸いだ。


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