2013年02月 | 家庭連合の信者が幸福を科学すると

幸福の科学の信者さんにオススメしたい本

幸福の科学の傾向性をいろいろ分析していて、
ある本のことが思い出されて仕方がなかった。

それは・・・「7つの習慣」である。

7つの習慣―成功には原則があった!/キングベアー出版

Amazon.co.jp

あまりにも有名な大ベストセラー本なので
説明するまでもないと思う。

読書家の幸福の科学信者さんであれば、なおのこと、よくよくご存知だろう。

ただ、知っているとか
もうとっくの昔に読んだよ・・・というのではなくて、
どうか、「原則に生きる」という意味をもう一度考えてほしい。

もう10年以上も前に読んで、いま手元にないので確認できないが、
最後に何を価値観の中心として置いているか
それによって行動パターンが異なってくるということが
具体的に書かれていた。

原則的に生きている場合はどうなるか?

そして、ある宗教団体に属していて、
そのコミュニティを基準として生きている場合はどうなるか?

そんなことも書かれていたように思う。

あまりにも的確で
自分自身にも深く戒めた記憶がある。







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仏陀離婚、即再婚は天上界の予定なのか?

今回の記事は、「大川隆法の予言はなぜ外れるのか?」の続きである。


大川隆法氏ときょう子夫人との離婚は「神の予定」なのか?

きょう子夫人は文殊菩薩だ、アフロディーテだと言っていたのが
「実はユダだった」という設定なので、
「いずれ離婚するようになる運命だったのだ。
主は何の過ちも犯していない」

というのが幸福の科学の見解だろう。

さらに再婚した近藤志央さんは
始原の神アルファとともに人類創世に携わったガイアの転生なのだという。

仏陀の離婚、そして即再婚も天上界の予定通り
ということだ。


しかし、一方では、「神の予定ではなかった」
本当は夫婦としてまっとうすべきところを
大川隆法氏は失敗してしまっのだ
、という解釈もできる。

そして私は後者をとる。


歴史にIF(もし・・・だったら)はないというが、

大川隆法氏が

もし、夫婦の不和を収めることができていたら。

もし、離婚しなかったら。

もし、離婚が決定的になったとしても、きょう子夫人に対して信者をあげて「悪妻封印祈願」をしたり、「イスカリオテのユダ」などと言っておとしめていなかったら。

もし、種村修氏が決死の覚悟で手紙を送ってきたとき、それを謙虚に受け止めていたら。

いまほど、多量の退会者やアンチを生むことはなかっただろう。
また、幸福の科学の未来は、まったく違っていただろう。


きょう子夫人の悪妻ぶり、悪母ぶりは
ファルコン氏の告発に、克明に記されていたし、
それが正しかったことは、のちに大川隆法氏自身が著書で証明した。

  

離婚騒動の時、5人の子どもたちは全員、
父親のほうについたという。

きょう子夫人は、家事も子育てらしきことも、何にもやらなかったらしい。

結婚生活は、ほとんど尻にしかれる状態だったのだろう。
大川隆法氏にとって、自分の手に負えない妻、
気の強い妻は年月とともにだんだんと疎ましくなっていったと思える。

癒されたい思いや、夫人への反発心で
身近な女性たちに心をひかれていったとしても、
わからなくもない。

しかし、夫として強い夫人をみごとにおさめて
夫婦瑞祥を貫いていたならばどうなっていただろうか?

今ごろは、「夫婦の法」「家庭円満の法」を堂々と説くことができたのではないか?

それこそが天上界の本来の予定だったのではないか?

「これが家庭ユートピアの見本だ。
私たちも順風満帆だったわけではない。
じつはとてもとても大変だった。
何度も離婚の危機があった。
そんな私たちでも危機を乗り越え
こうして夫婦で添い遂げているのだから
あなたがたも私に見習って、幸せな家庭を築きなさい」


このように宣言した時、
「仏陀再誕」の書籍における家庭ユートピアの記述も
さらに重みと説得力を増すのだ。

(「仏陀再誕」より)
「およそ信仰においては、まずよき土壌が必要である。
よき土壌とは、調和された家庭のことである。
夫婦ともに信仰心に満ち、調和に満ちていることが大事だ。

このようにユートピアの建設は、仏国土の建設は、
まず家庭から始めねばならない。
家庭に始まった仏国土の建設が、いちばん大事である。


あなたがたも、私の次なる言葉をよくよく聞きとってほしい。
まず、家庭をおろそかにしてはならない。
家庭をおろそかにして仏国土建設ということはありえないということを、
肝に命じなさい。

自らの家庭をおろそかにして、
たとえ外においていかなる慈善事業をしようとも、
たとえ外においていかなる難民救済をしようとも、
たとえ外においていかなる献金をし、いかなる信仰深い行為をしたとしても、
もし、家庭というものをおろそかにしたならば、
そのような信仰は本物ではない。

まず、自らの家庭をユートピアにせずして、
全世界をユートピアにすることはできない。




すばらしい、そのとおりである!

これがそもそもの神の予定だったのではないかと思えてならない。

しかし、大川隆法氏は、天上界の予定であった家庭ユートピアつくりに失敗したのだ。


神の願いは人間の限界を越えているときもある。

神の予定に対して、人間の行動が
それにかなわないときもある。

どんなに頑張っても、届かない時もある。

しかし、失敗したままの神ではない。

そこから直ちにまた、新たな道を準備されるのが神なのだ。

何度も何度もチャンスをくれる。

だから、大川隆法氏は
何度も何度もそのチャンスを逃したといえる。



神は何度も何度も再起のチャンスを与えてくれた。
決して見捨ててはいなかった。

良心の声は叫んでいたはずだし、
心ある弟子たちが進言してくれていた。

しかし、それを否定し、成せなかったのは
誰の責任でもない、大川隆法氏の責任である。


天上界の予定は、あくまでも、使命を果たしてほしい、
善なる方向へ信者を導いてほしい・・・ということではなかったか?

しかしことごとく、真実を隠し、少しでも批判するものがあると
信者たちの前で徹底的に罵倒した。

天上界の示す方向と逆行したのである。



神の願いと、それに対する人間の責任・・・。
私たちは今一度、深く考える必要があると思う。。

一人ひとりにも、神の願いがあるし、また責任がある。

まずは、神の願い(つまり自分の使命)を正しく知ることから始まるだろう。






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縁起の理法が本当にわかっているのか?

ハリボテの科学」そして「砂上の楼閣」という記事で、
見かけは立派そうなのに、よく見ると中身が無いという幸福の科学の傾向性を書いた。

「縁起の理法」というのが、幸福の科学の一番基本的な教えだったと記憶しているが、
はたして本当にそれがわかっているのだろうか?という疑問が出てくる。

理屈としてではなく、行動原理として。

縁起の理法。
善因善果、悪因悪果。
まかれた種の良し悪しは、実った果実でわかる。
時空を貫いている原因と結果の法則。
そんなふうにも表現する。

あまりにもわかりきったことなのに、
どうして見せかけの実績をつくろうとするのだろう?

架空のベストセラー。
架空の映画興行成績ランキング。
架空の信者名簿。

幸福の科学の職員、信者は
本当に神を信じているんだろうか?
本当に霊界を信じているんだろうか?
本当に縁起の理法を信じているんだろうか?
とさえ思ってしまう。

結果を焦るあまりに、
嘘であっても、見せかけであっても
ベストセラーとか、書籍の発刊数とか、
日本のあちこちに建てられた箱モノ、
それでもって
「大川隆法総裁はすごい。救世主だ」と示すことができると
考えているんだろうか?


それとも、もしかして、行動の原理は
縁起の理法ではなく、
いかに教祖に満足してもらえるか、ご機嫌をとることができるか
それが基準になっているのか?

結論として考えられるのは、因果の理法が
理屈として観念的にそうなんだとわかっても、
実際の生活には全然展開できていないんだな、ということだ。


本当に縁起の理法を信じているのであれば
他人から認められようと認められまいと
見せかけの実績をつくろうとはせずに
黙々と努力を積み重ねるだろう。

その生活の積み重ねが伝統となり
文化となっていくのだ。

縁起の理法からすれば、
いつか、メッキははがれる。
隠された嘘は明るみになり
隠された真実も明らかになる。



洋の東西を問わず、
文化や歴史の背景にあるのは宗教である。

西洋の歴史には、キリスト教が
東洋の歴史には仏教、儒教が多大な影響を与えてきた。

教祖の説いた教えが、教義となり
思想となり、行動原理となる。

それが実生活に展開され、
生活が文化になり、
文化が伝統になり、
伝統が歴史になる。

幸福の科学は、
どんな生活態度で、どんな文化を作り
どんな伝統を立て
どんな歴史をつくろうとしているのだろう?


※この記事で最初は「因果の理法」と表現していましたが
幸福の科学では正確には「縁起の理法」と言うようです。
記憶違いでした。訂正しました。





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砂上の楼閣

見かけは立派そうなのに、よく見ると中身が無いという
幸福の科学の傾向性を、先日つい「ハリボテの科学」と表現してしまったが、考えれば考えるほどその通りだなと思ってしまう。

たとえば、
★選挙の得票数が40万しかないのに、信者は1000万人いるとか。
(教祖みずから幸福実現党をつくって政治に進出しているのに、そこに投票しないレベルの人を、「信者」とよぶことができるのだろうか?選挙では信者以外の人も投票することを考えると、実質の信者数は得票数の何分の一かだ。)

★1年に100冊本を出してギネス更新と言ってるけど、一つ一つの本の中身はスカスカで内容がない。


アンチブログを見ると、もっとすごい内情暴露の山で驚く。

★20年連続ベストセラーと言いながら、支部や信者の家には本の入った段ボール箱が山積み。

★映画館に一人が10回20回と入場する人を「ぐるぐる菩薩」と称してほめたたえる。それで興行収入○億円とか、ランキング◯位とか発表される。(私も映画は何度か行ったが、いつもガラガラだった。というか、入り口で信者さん風の人に「この人誰?」みたいな目でにらまれて怖かった。)

★新聞に大々的に広告を打つのは、まだ財務は大丈夫なんだと見せるためとか。

一事が万事、こんな、見せかけをとりつくろうような話ばかり。
こういうのって何て表現するんだろう?
「自作自演?」「自己満足?」

時間がかかっても、着実に基盤をつくらなければ、
ハリボテは、いつかばれる。
というか、もうとっくにばれている。

風船をふくらますように、中身が無いのに大きく大きく見せようとしても
そこになんの意味があるのか?

これを「砂上の楼閣」というんだよな。

有名なイエス・キリストの言葉がある。

(マタイによる福音書 第7章)
「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。



※今日の記事は、先日の「ハリボテの科学」の続きでした。




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批判に過剰反応しすぎでは?

信仰の道に試練はつきものだ。

ちょっとの試練、自分が否定されることで、ジタバタする人がいる。

少し悪口を言われただけで逆上してキレる人もいる。

マスコミにほんのすこし批判されただけで大騒ぎする教祖がいて、大騒ぎする団体がある。
それは自らの器の小ささ、信仰の幼さを証明している以外の何物でもない。

信仰を持たない人と、信仰を持つ人の違いは
このようなときにどのような態度をとるかに表れるのではないか?

救世主イエス・キリストの歩みを振り返ると、3段階の試練があった。

外的試練、内的試練、そして真の試練だ。

$幸福の科学を統一教会の信者が見ると

(1)まず、外的な試練。
これは目に見えるカタチでの試練である。宗教指導者や国など、既成の勢力からの大迫害である。
イエスは世を惑わしたという罪で、十字架という極刑に科せられた。

外的な試練はひどかったが、イエスの心は穏やかだった。イエスと共にする弟子たちがいたからだ。弟子たちの存在がどれほど心強かっただろう。

(2)次に内的な試練である。それは身近な者、弟子たちや家族の不信であり、裏切りである。目に見える形の外からの迫害よりも、精神的にはもっとダメージは大きい。「命をかけて運命を共にする」と誓った弟子たちが、自分の身が危うくなったとたん「私はあの人を知らない」と言って否定し逃げ出した。イエスの心はどれほど痛んだことだろう。

弟子たちが裏切り去っていった時、イエスの心の支えはただひとつ、すべてをご存知の父なる神であった。

(3)そして最後の試練がある。十字架の苦痛の絶頂で、それまでイエスと共におられた神との交流が切れる。神の姿が見えなくなる。「我が神よ、我が神よ。我を見捨てたもうか?」とイエスは思わず叫んだ。

最後の真の試練は、生涯共にあってくださり、それまで一問一答していた神から「見捨てられる」という試練だったのだ。

祈っても通じない。求めても答えがない。

愛するひとり子に対する、人間のあまりにもむごい仕打ちに、神は思わず目を背けられたのか?

しかしここでイエスは気をとりなして祈る。「すべてをあなたの御手にゆだねます」
神から見捨てられても、最期は感謝で越えていったイエス。
助けたくても助けることのできない悲しい神の事情、心情をありありと察していたのかもしれない。

最期は真の試練を越えて、真の神の子であることを証明した。


使命が大きければ大きいほど、また受ける試練も大きい。
凡人には計り知れない境地だが、
程度の差はあれ、また宗教は違っても、
信仰の道を行こうとしたときに我々も、(外)→(内)→(真)と、同じような試練を通過するのではないか?


果たして自分は、どのくらいの試練まで越えることができるだろうか?

ささいな事で心が揺れたり、怒ったり、悪口を言う相手を非難するのではなく、
真の信仰者らしく、
でんと構えて不動の境地でいられるそんな人物を目指したいものだ。

人の悪口なんて、まだまだ外的な試練にすぎないのだから。





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言行不一致をどうする?

大川隆法氏や幸福の科学に対する批判の中で一番多いのが、
言行不一致であろう。

言うことは立派でも、行いは正反対とか、
教えに対しての実践が伴っていないとか。


しかし、実際のところ言行一致、これが一番難しい。

言行一致の人を、人格者という。
イエス・キリストは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と語られ、その通り自らの命を差し出して実践された。

理想と現実、
自分のなかの本心(善の心)と邪心(悪の心)、
そのはざまで葛藤する。

頭ではわかるのだが、心がついていかない。
心で思い、言葉にするのだけれども、行動がついていかない。

だからこそ、宗教の歴史の中で、
より本心にしたがい善に生きようと、信仰者は血の滲むような努力をしてきたのだ。

修行をしたり、瞑想をしたり、真理を探求したり。


現在は米国で統一教会の世界会長として活動されている文鮮明師の7男、文亨進会長が、韓国テレビのインタビューに応えられたときの話が心に残っている。

インタビュアーから、「統一教というのは、朝鮮半島の南北を統一する」という意味ですか?と尋ねられた。(「統一教」というのは韓国での呼ばれ方)

会長の答えは、
「南北統一という意味ではありません。
統一教のいう『統一』というのは、
まず自分の心と体を一つにする。
そのような夫と妻が一つになる。
そして人間と自然が一つになる。
これが統一教の目指す世界です。」

という答であった。

この3つが人生の目的、目標であり、
これを実践することで成されるのが家庭ユートピアであり、地上のユートピアなのだ。

まずは、ここから始まる。
私も日々、格闘中(修行中)である。

イエス・キリストのように、これを率先して示してくださる方がまさに救世主であろう。

 
 ↓ ↓ メディアの取材に積極的に応じて来られた文亨進世界会長
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ダライ・ラマとの対話
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ハリボテの科学?

「経営入門」という1万円もする本がある。



さぞかし立派な内容が書かれてあるんだろうと思った。

「天使のモーニングコール」をPodcastで見つけて聞いていたら、鈴木真実哉教授が「経営入門」を絶賛していた。

「幸福の科学的経営法」って、なんだかすごいことが書いてあるように思って、高かったけど、Amazonのマーケットプレイスで中古の一番安いのを買った。

実は私も2009年の衆議院選挙前までは、幸福の科学が大発展しているように錯覚していた。

それできっと参考になると思って購入したのだ。

冒頭の、「人を感動させなさい」・・・
そこまではよかった。

でも次章から、なんだか言わんとすることが不明で、眠たくなって読まないまま投げ出した。

即Amazonで転売。買ったよりも高く売れたから、まあいいけど。

見かけはりっぱそうで、中身が無い
どうもこれが幸福の科学の本質のようだ。


ところで「幸福の科学の支部もハリボテだよな。」
友人がそんな事を言ってて吹き出した。

通りからみると、立派な建物に見える。
2階建ての大きな建物に見えるんだ。

でもちょっと横から、裏から眺めると
表から見て想像したのとは信じられないくらい、小さな建物だったりする。

こんな風に見えるのが・・・
chokuhoutai.jpg
実際はこんな感じ。
chokuhoutai2.jpg

たとえば、幸福の科学支部を、適当にGoogleマップで検索して、ストリートビューで見てみれば・・・。

これが・・・
WS000005-2.jpg

こんな感じ。
WS000004-2.jpg

こういうのも多い。
chokuhoutai3.jpg

ハリボテの科学ですな。

これは一貫している。

「性相が形状化する」という言葉がある。
目に見えない内面が、見えるカタチにあらわれるということ。無意識のうちにも。

これってそうなのかな・・・。

ただの見栄っ張り?


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なぜ過去世がコロコロ変わるのか?

「逆境からの脱出」という講演テープがあった。
私を伝道しようとしていた知人からもらって、何度となく聞いた。

理想国家 日本の条件」という本に収録されている、1990年代初めのころの講演だ。

検索すると、目次がでてきた。1994年刊だな。

第3章 逆境からの脱出
1 逆境からの脱出-政治編
・混迷する日本の政治
・信長・秀吉・家康は現代に生まれ変わっている
・金儲けが目的で政治家になる人はいない
・派閥は有効に機能している
・政治家は言葉を武器とせよ
2 逆境からの脱出-経済編
・ヨーロッパとアメリカが恐慌の震源地となる
・不況の原因はマスコミにもある
・甘さとお人好しは倒産の原因
・不況の乗り切り方
3 逆境からの脱出-病気編
・肉体と心は不二一体である
・積極的な思想を持て
4 逆境からの脱出-家庭編
・家庭不和には悪霊の作用がある
・言葉と心の調律を

私は当時営業職から、ある店舗の経営を急にまかされるように変わって、暗中模索の状態だった。
幸福の科学の書籍に、経営に関する記述が多かったのは助かった。

今思えば、ごくごく初歩的な内容ばかりだが、
経営に関してずぶの素人だった自分にはぴったりだった。

「不況期の倒産原因は、人任せ・運任せ型の甘い経営や人材配置、取引におけるお人好し経営、権限委譲型経営、やみくもな多角化路線などだ。

不況期には、高収益部門・商品の徹底強化をせよ。
経営者は「見通しの甘さ」と「お人好し」の心を排除せよ」

そんな話が新鮮だった。
このへんの話は好きで、何度も繰り返しテープを聞いたものだ。

そのおかげで、自分に必要だった経済編以外の部分の政治編も何度も聞いた。
それで内容もよく覚えている。

戦国時代の武将が、政治家として生まれ変わっているという話だ。

織田信長・・・小林興起
豊臣秀吉・・・鳩山邦夫
徳川家康・・・住博司

「二十一世紀には、こうした信長、秀吉、家康らの時代が始まります」という話だった。
何度も聞いたので、よく覚えている。

ところがだ。
最近の豊臣秀吉の霊言でも、徳川家康の霊言でも
20年前の講演内容を否定しているではないか?

 

鳩山邦夫は秀吉の生まれ変わりではない。
住博司は家康の生まれ変わりではない。
(住博司氏は1998年43歳で逝去されている。)

いいかげんだな~。
話のつじつまが合わなくなってきたから、設定変更か?

まあ、戦国武将が誰に生まれ変わってるなんて話、私はどうでもいいけど、
それにしても信者さんがかわいそうだ。
一貫性がなさ過ぎる。
これで、「無条件に信じてついてこい」と言われても大変だろうな~、
疑いの心を持ったり、不信すると無間地獄に落ちるなんて脅されてるし。

そんなことを考えた。

職員の方々は、どうやって信者さんをフォローされるんだろうね。


一体なぜ、大川隆法氏の言う過去世設定はコロコロ変わるのか?

それは簡単だ。
真実はひとつ!(コナン風)

そもそも、過去世なんてないから。
前世なんてないから。


このブログでも何度も書いているように、
霊界からその人が協助する現象はあったとしても、生まれ変わりはない!!

これが真実。

悪意に取れば、「最初から詐欺だったんだろ~」ということになるが、
大川隆法氏の言動を善意にとらえてフォローするとすれば、

霊的なものが見える人は、その協助現象が生まれ変わりに見える
当時の3人にはそれぞれ信長、秀吉、家康がきっと協助していたんだろう。
それを生まれ変わりと勘違いして宣言したんだろう。

でも協助現象なんて普遍的なものではなく一時的なものだから、何十年もたって再び霊視してみれば、協助霊が変わっているのは不思議でもなんでもない。

過去世設定がコロコロ変わる理由を、私はこのように解釈する。


前世はない。
生まれ変わりはない。
過去世はない。

人間は一度きりの人生。
死んだら永遠に霊界で生きる。
地上人に協助することはあっても、生まれ変わることはない。

親なる神様が唯一、永遠であるように、その神の子である人間も唯一、永遠の存在。

こう考えるほうが、ずいぶん科学的ではないか?

ただこれを認めると、幸福の科学の教義体系は崩壊してしまうと思われる。
特に最近は仏教的な心の教えではなく、もっぱら霊言だのみだから。


関連する以前の記事
「輪廻転生の嘘」
「生まれ変わりではなく、使命であり協助現象」
「生まれ変わりでなく霊界からの働きかけでは?」




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放蕩息子

$幸福の科学を統一教会の信者が見ると

この絵は1660年代にオランダの画家、レンブラントによって描かれた「放蕩息子の帰還」である。

絵のテーマになっているのは、新約聖書 ルカによる福音書にある有名な放蕩息子の話。

要約すると以下のような内容だ。

父から財産を等分に与えられた兄弟のうち、弟は家を出て放蕩し財産を使い果たした。
やがて飢饉となり、豚の世話役となって、その餌で餓えをしのぐほどに落ちぶれた。
啖呵を切って家を出た以上、二度と帰れない立場だったが、本心にたちかえって、素直に自らの失敗を認め、親元に帰ることを決心する。
罵倒され突き返されるのを覚悟で実家に帰るが、そこには息子の帰りを今か今かと待っている父親の姿があった。

これは、イエスが神と人間の関係を、親子の物語にたとえて語ったものだ。
(この話には長男と父親の葛藤・・・という続きもあるのだが、ここでは省略。)

家を飛び出して、勘当した息子であったとしても、いつまでも親として子を愛し心配し、帰りを待つ親の心がみごとにたとえられている。

すばらしいのは、惨めな最低の姿でありながら、自らの非を認め、素直に親にわびようと決心した息子の心である。

「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい」と。(ルカ福音書 第15章)

そう告白する。

そこまで砕けた心で親の元に帰ったのだ。


私たちも同様である。
ついつい傲慢になって、何でも自分の力でできるような気分になり、神様なんか関係ない、オレが神様だ!みたいに突っ走ってしまう。そしてほどなく壁にぶつかり、にっちもさっちもいかなくなる。

えっ?大川隆法氏みたいだって?

違う、違う。
誰でもがそうなり得るのだ。


問題はここで、ほんとうに素直に、謙虚になれるか?
自らの非を正直に認めることができるか?
「息子として扱われなくてもかまわない。召使いでもかまわないので、親元にいさせてくれ」と、
ただただ親の許しを得、親の元に生きていたいと、
本心に立ち返った放蕩息子のような、そんな純粋な心になることができるか?
財産も何もいらない。必要なのは親子の愛だけだと。

これはハッキリ言って至難の業だ。
プライドの高い人にしてみれば、きっとエベレスト山よりも高く見えることだろう。

特に自分で「地球の最高神」とか「主」とか「国師」とまで言う人にしてみれば・・・。

限りなく勇気のいることだ。

しかし、それができたとき、神様はすべてを許し、受け入れてくださるだろう。
どんな放蕩息子であっても、神様のかけがえのない息子なのだから。



余談ながら、私はすべての人が
人生に一度は、この放蕩息子の心境を通過するのではないかと思っている。

親である神様の心がほんとうにわかったときには、
神様を無視して生きてきたそれまでの人生が申し訳なくて申し訳なくて、涙がでてくる。





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人間「神の子」「仏の子」という思想

幸福の科学の支部に行ったとき、
支部長から

「統一教会は原罪といって
人間は罪人だという教えを説いている。
これが問題なのです。

幸福の科学は人間神の子仏の子と言っています。
人間の本性はすばらしいんだというのが
幸福の科学の教えです」

と説教されたことがある。

とんだ誤解だ・・・と思った。

人間神の子であるというのはキリスト教も同じである。

本来神の子である。完全な善の姿である。
しかし、人間始祖が堕落してしまった。

だから、神の子ではあるけれど、
悪魔の子でもある。
善と悪の中間位置にあるのが現実の人間の姿だ
と見る。

これが人間観である。

だから、無条件で善の姿とは見ない。
生まれながらに悪の要素も持っている人間である。

ただし、すべての人間が善なる良心を持っているから、
自然に良心の呵責を感じるし、なんとか本来の善なる姿に戻ろうとする本性がある。

そう考える。

人間神の子と言っても現実を見ると、とても神の子とは思えない罪悪で満ちあふれている。
その理由をこの人間観から説明する。



人間「神の子」「仏の子」というのは同じだ。

ただし、神と人間が親子だと言っても
段階があるだろう?


たとえば
幼児
小学生
中学・高校生
青年期
壮年期
老年期

いくつになっても親は親、
敬うのは当然のこととして、
親に接する態度は年代によって異なってくるはず。

幼少年期は、親に甘えるだろう。
中学・高校生くらいの思春期になると
自立心から、反発もあるかもしれない。

しかしやがて大人となり独り立ちしていくようになると、
親のありがたさが身にしみて感じるようになってくる。

また、親が苦労している姿を見ると
なんとか力になってあげたい、
親を喜ばせたい
そんな情も沸いてくるだろう。

やがて結婚し、子供を育ててみると
ますます親の気持ちがわかってくる。

神様が親であり、人間が神の子であるならば
そのような人間世界での親子関係が
神様と人間の間にもあるのではないか?

とすれば、自分自身は親の前にどのくらいのレベルなのだろう?

親の事情もわからずに、
「あれちょうだい、これちょうだい」とだだをこねて甘える子供の姿なのか?

それとももう少し成長して、親を喜ばせようとする姿か?

親の抱えている複雑な事情を察して
何とか力になろうとする姿か?

親の悩みを打ち明けてもらい、
一緒に涙を流したり、喜怒哀楽を分かち合う姿か?



<追記>
今回はちょっと難しい話だったかもしれないので
意味不明だったらスルーしてもらってかまわない。

幸福の科学でいう「仏神の子」って、どのくらいの段階になるんだろうね。






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大川隆法の予言はなぜ外れるのか?

幸福の科学のアンチサイトでは、
大川隆法氏の予言は外れっぱなしということがしばしば書かれている。

大きなところでは
「黄金の法」の初版と現在版の比較。

黄金の法―新文明を開く釈迦の英知 (心霊ブックス)/大川 隆法 土屋書店1987年


黄金の法―エル・カンターレの歴史観 (OR books)/大川 隆法 幸福の科学出版

Amazon.co.jp


「(20世紀末には)おそらくは大地は揺れ、空は曇り、津波がいくつかの諸都市を襲い、陥没する大陸もあるでしょう。空から降る火の雨に逃げまどう人々の姿を、テレビで見たり、ラジオで聞くことになるでしょう。」

改訂版が出た時は、以上の内容はバッサリ削除されている。

西暦2000年。世界の人びとは、前年の夏に起きた衝撃的な悪夢からまだ立ち直れないでおります。この頃まで世界の中心だったニューヨークは、その機能をほぼ壊滅的なまでに失っているでしょう。ロンドンの人びとは、夜明けの薄明かりのなかを、手探りをしながら歩いている状態です。フランスは眠っております。中近東は仮死状態です。中国は政変が起きて、共産主義体制が急速に崩壊していきます。ソビエト? その名は、死を意味しています。大きな死体が横たわっているのと同じです。

日本は―――日本は、全国各地で復旧作業が続いております。自衛隊員が、ミミズのように分断された新幹線の線路工事に、玉のような汗を流しているでしょう。かつて都市だった太平洋岸のある地域には、黒潮が打ち寄せて、藻が繁り始めています。日本各地で、政府主催の合同慰霊祭が行われて、その読経の声が低く流れております。しかし、日本は無事でした。この災難を期に、日本では、神理を求める声が全国津々浦々から聞こえてき始めて、人びとは悪しき万能主義、唯物主義の迷信から目覚め、光へと向かいつつあります。」


2000年の様子を描写したこれらの予言も削除されている。

ご苦労様。

幸福の科学の救世事業によって、大災害が回避されたのだ。
大難が小難になり、小難が無難になったんだ
という主張もあるかもしれない。

それにしても、「このようになる」と断定的に書いた書籍を
後ほどの改訂版でばっさり削除しないといけないというのは
かなり恥ずかしいことではないか?

「運命論」は間違いである。
大川隆法氏は断定的に発言するために、
信者を誤った方向へ誘導している部分が多々あるのではないかと思う。


大川隆法氏の予言はなぜ外れるのか?
このことについてはまた書くこととする。


以前の記事「なぜ予言には両面があるのか?」も参考にご覧下さい。





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宗教のめざすもの

幸福の科学が魅力的だったところ、
それは爽やかな明るい宗教、未来型宗教というイメージだ。

宗教といえば、「迷信」とか「弱いものが信じるもの」と言われることが多く
普段は冠婚葬祭のときとか、地域の行事以外は用がない、
文化財か古い歴史の遺物か
そんなイメージを持つ人が多かったと思う。

表だって口にするのをはばかられる・・ような。

幸福の科学には
宗教を堂々と語り、誇ることのできる、そんな文化を作って行こう
発足時はそんな気概を感じた。

「偉大なる常識人となれ」
すばらしいスローガンだと思った。
共感した。

宗教は違えど、信仰を持つ一人の人間として、自らもそうあらねばと思った。

この20数年間、幸福の科学は私にとっていい刺激になってきたし、その存在に感謝している。

このブログでは、手厳しく批判しているけど、本当は初心を忘れずがんばってほしい
というのが正直な気持ちである。

大川隆法氏は2005年ごろ、心臓発作で危ない時があったという話も聞いたことがあるが、今も生きて現役で活動中ということは神様に生かされたのだと思うし、まだやるべき使命が残っているのだと思う。

今となっては、もはや軌道修正は不可能か・・・?


ユートピア建設というのは、宗教人みな共通の夢であろう。

文鮮明師の自叙伝には以下の記述がある。
「宗教も、自分の宗教のために存在するのではなく、愛と平和のために存在します。世界平和が成し遂げられれば、もはや宗教は必要ありません」

「宗教は神様の完全な世界に入っていくための手段であって、それ自体が目標ではないからです」


入教したばかりのとき、教会の先輩からこんなことを言われた。
「宗教をなくす宗教、それが統一教会なんですよ。
神様が親(父母)で、人間が神の子であるという、これが当たり前の世界になれば宗教は必要ないんです」と。

意外な言葉であったが、不思議と納得した。

教団の存続や発展は問題ではなく、
まして、他人からどう評価されるかが問題ではなく、
重要なことは、神様の願われるように生きることができるかということだ。

神を親とし、他人を同じ親(神)を持つ兄弟姉妹として
本当に家族のような情の関係を結ぶことができるか?
国や人種を超えて、そのような人間関係をどれだけ築くことができるか?
そして幸福な家庭をつくることができるか?

それができずしては、理想はただの「絵に描いた餅」にすぎない。
また、それはきれい事ではすまない、ほんとうにたいへんな道だと思う。
しかし、これ以上に夢があり、やりがいのある人生もないのではと思う。
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「あなたが主である」という啓示を受けた大川隆法

なぜ大川隆法氏は「自らが神である」というような
とんでもない妄想を持つようになってしまったのか。

これは私の個人的な予想であるが、
幸福の科学が宗教法人化する前の1990年ごろ、きっと大川隆法氏は
「あなたは主である!」という啓示を受けたのだと思う。

「そうか、私が主なのだ!」

そこから以下のような、とんでもない設定が生まれてきたのだろう。

エル・カンターレとは、「うるわしき光の国、地球」や「地球の光」という意味で、その名の通り、地球の最高神です。
主エル・カンターレは、地球のすべての神々を導く存在であり、キリスト教的にはイエス・キリストが「わが父」と呼んだ方、イスラム教的にはアッラーです。
そして、主エル・カンターレは、現代の日本に大川隆法総裁として生まれられ、西洋文明と東洋文明を日本という地で融合し、全人類を導く教えを説かれています。
(幸福の科学サイトより)


ちなみに、最近の著書『太陽に恋をして~ガイアの霊言』では、なんと!「まえがき」「あとがき」のあとには、「主 大川隆法」とまで、書かれている。


ところで、統一原理の復活論のなかに、「終末に起こる霊的現象」という項目がある。

以下、信徒用教材から。(赤線は筆者)
$幸福の科学を統一教会の信者が見ると
$幸福の科学を統一教会の信者が見ると

終末には、「あなたは主である」という啓示を受ける人たちが多く現れるが、それはなぜか?という解説である。

本来神様は、人間を創造されたとき「生めよ、ふえよ、よろずのものを治めよ」という祝福を与えられた。「万物の霊長として、神の愛をもって全ての万物を治めなさい。神の創られた世界を治める主になりなさい」と祝福された。

しかしその神様の願いを、人類始祖アダムとエバは未完成の段階で堕落し、果たすことができなかった。

それで、人間の心霊が時代と共に成長し、人間始祖が堕落する直前の立場と同じ心霊基準に達すれば、神様は「あなたは主である」という啓示を下さるのだ。

また、各自の使命分野においては、再臨主のための時代的代理使命者として選ばれた聖徒たちなので、彼らにも、「主」という啓示を授けてくださるのである。

さらに、神様は彼らが各自最善を尽くすように激励なさるため、「あなたが一番である」という啓示を下さるという。

彼が担当した部分的な使命分野においては、事実上、彼が一番であるために、このような啓示を下さることもあるというのだ。

これが統一原理による見解だ。
さらにこう続く。

また、篤実な信仰者たちが、アダムとエバの堕落直前の心霊基準まで成長して霊通すれば、アダムとエバが克服できずに堕落したのと同じ試練によって、堕落しやすい立場に陥るようになる

統一原理で言う「堕落したのと同じ試練」というのは、まさに愛と性の問題、淫乱の罪である。

この統一原理が書かれたのは1960年代であり、幸福の科学が出てくる20年以上も前に書かれたものである。

後付けの説明ではない。
このような現象が起こってくるだろうという50年前からの予言であった。

幸福の科学の動向を見ると、まったく統一原理の予言通りに進んでいるのがよくわかる。
いわば、公式どうりの顛末というわけだ。

「自分が一番」と思いこんで傲慢になる、謙虚さを無くし誰の言葉にも耳を傾けなくなる、そして行き着く果ては男女の乱れた関係へ。

幸福の科学にかかわらず、あらゆる霊的な集団が陥りやすい落とし穴なのだ。



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幸福の科学衰退の決定的要因

幸福の科学では今、退会者や植福(献金)をストップする人が
続出していると聞く。

幸福の科学では教義が変わったり
過去世の設定がコロコロ変わることに
疑問や不信を感ずる人も少なくないと思う。

そして次々と起こるスキャンダル。

しかし疑問を持ったとしても
疑ってはいけない、ただ信じなさい
と教えられるため
理性を無視し盲目的な信仰へと走っていく人のみが残り、
もはやついて行けない人が多量に発生しているのだろう。


幸福の科学がもし、初期のような神理の探究団体であり
正しき心の探究をする団体であれば

あるいは
大川隆法氏が、ただの作家であったり
団体の主宰ぐらいであれば
さほど問題ではなかっただろう。

真理の探究中なのであれば
年月とともに悟りが深まっていくこともあるだろうし
新しい悟りや教団の発展とともに
教義の変更も十分ありえるだろう。

いろんなスキャンダルも
修行中の身ということで素直に反省の姿を示せば、
いくらでも挽回が可能であろう。


最大の問題は
不完全な状態で、完全なものであるかのような設定にしたことだ。

いち修行者、いち真理探究者であれば良いものを、
それをいきなり
「我こそはエル・カンターレなり。地球の至高神なり」
とぶちあげてしまったものだから
後に引けなくなってしまったのだ。

さらに教祖のみならず
団体の職員までも
「絶対善なるエルカンターレに従う団体だから
教団も絶対善、職員も絶対善」
となり
会員の意見には一切耳を傾けない
意見する者は「魔にとりつかれた者」とレッテルを貼って排除する
そんなとんでもない団体になってしまった。

愛、知、反省、発展という「四正道」を説きながら
自らが反省のできない教祖と団体になってしまった。

ここに大きな矛盾がある。


なぜ大川隆法氏は「自らが神である」というような
とんでもない妄想を持つようになってしまったのか、
それに関しての見解は明日書くことにする。



次の記事「あなたが主である」という啓示を受けた大川隆法





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没落の法則という恐ろしい方程式

アンチサイトでは、
幸福の科学に関する没落の法則逆没落の法則
まことしやかに囁かれている。

恐るべき方程式。

大川隆法氏によって持ち上げられたり
幸福の科学にかかわると
坂道から転げ落ちるように運を無くして没落する
という怖い法則なのだ。

アンチサイトであげられている例はたくさんある。

「没落の法則」で検索すると、たくさんの例があげられている。

たとえば先日も、映画「ファイナル・ジャッジメント」に出演した宍戸錠さんの自宅が全焼したとか。

「もしかすると自分も幸福の科学に関わったため、没落の法則にはまってしまうかもしれない」と不安になったときは、どう対処したらよいのか?
それが、逆没落の法則だ。

幸福の科学から悪魔認定されたり、訴えられたり、非難されたりすると、何と逆・没落の法則が働いて、一気に運勢が上がるという。

すごい開運の方法である。

この例も「逆・没落の法則」で検索すると、色々と見つけることができるだろう。

そういえば、統一教会も2010年ごろ大川隆法氏の霊言でさんざん悪口言われた。「文鮮明の霊言」。



一信者として統一教会の内部状況を振り返ってみると、どうもその頃が一番大変だった時期で、それ以降ゆるやかながらV字回復に向かっているような気がする。
私の勝手な主観だが。

これは逆・没落の法則が働いたのかもしれない!(笑)

あの霊言はそもそも、とある雑誌が新興宗教の特集をした時に、幸福の科学が統一教会と同じカルト扱いされていることに大川隆法氏が激怒して、それで「うちはそんなカルトとは違うんだぞ~」と主張したいがための霊言だったらしい。

それまで霊言はたぶんホンモノなんだろうというのが私の認識ではあった。
霊言の対象として取り上げている人も、詳しくは知らない人が多かったし。
1980年代の霊言も興味深く読んでいたし。
しかしあのとき、霊言は100%デタラメだとはっきり認識させてもらった。思えばありがたい霊言であった。


記事「大笑い文鮮明守護霊の霊言」もどうぞ。




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神はなぜ沈黙されているのか?

遠藤周作の「沈黙」という小説があった。
17世紀、江戸時代初期の史実・歴史文書に基づいて書かれた小説である。



すさまじいキリシタン弾圧の中で
挫折していった宣教師の悲しみ。

理不尽な仕打ちを受け続けるキリシタンを見つつも、
なぜ神は沈黙を保ったままなのか?

無能の神なのか?
善の神ではないのか?
神は正義の味方ではないのか?

なんともやるせない物語である。

ところで、一般に「神を信じない」という人は、ただ唯物的な人ばかりではない。
善良に、正直に、真面目に生きながらも裏切られたり、理不尽な目にあったり、とても苦労した人である場合が少なくない。

神がいるなら、なぜこんな報われない人生なのか?

なぜ要領良く、ずる賢く生きている人が豊かに幸せそうになり、真面目に正直に生きている者がつらい思いをしなければならないのか?

こんな世のなか、神も仏もあるものかと。

本当に真面目に努力し、一生懸命に生きた人こそ、こんな思いになりやすいだろう。

神はなぜ沈黙を保たれるのか?
無能な神なのか?

その答えは、神の責任と人間の責任にある。

神がどんなに道すじをつくられたとしても、最後にそれを全うするのは人間自身の責任なのだ。

神はそこに干渉することはできない。
人間はロボットではないのだから。

助けたくても手を差し伸べることができない神。

救世主を送っても、それを受け入れるか受け入れず排斥するかは、人間の責任。

十字架上のイエスを助けることができずに、じっと見つめることしかできない神。

善なる者が鞭打たれ、弾圧され、それに沈黙で見守るしかできない神。

冷たい神?無慈悲な神?
いや、一見そう見えるが、その背後には膨大な涙がある。

気の遠くなるような忍耐と悲しみと、あまりにも深い愛情。

じつは苦しむ人間以上に、それを見つめる神のほうが苦しみを味わっておられたのだ。

遠藤周作の「沈黙」でも「弱い神」「寄り添うイエス」として描かれていた。その通りだと思う。

親として我が子を救いたい神、
しかしどんなに手をさしのべられても
人間のほうでそれをしっかりつかまなくては、救いは成就しない。

人間自らが悟り、そして行動しなければ。


これは
「神がいるなら、どうして世界中戦争ばかりなんだ?」
「なぜ神は人類を一度に救えないのか?」という疑問への答えでもある。

神は全知全能。愛の神、善の神。でも原則を曲げることはできない。絶対・永遠・不変の神であるから。

コロコロといくらでも都合よく設定を変えることのできる、地球至高神のエル・カンターレとは全然違うことを付け加えておきたい。


 ↑
「沈黙」って映画化もされたのですね。




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映画「ヘルメス 愛は風の如く」の記憶

初めて幸福の科学の映画を見たのは
「ヘルメス 愛は風の如く」。
あれは良くできていた。
チケットをもらって見にいったけど
もう一度見たくて2回目は自分でお金を払って行った。

描かれるエーゲ海の美しさと、水澤有一さんの音楽がよくマッチしていた。

それから今思うのは、ヘルメスはなかなか戦略家だなと、そのあたりも面白く見た。



そして最後はやはり、奇跡が起きて、めでたしめでたしなんだな。

霊界で大魔神となったミノス王と対決。
ヘルメスは全然歯が立たず絶体絶命のピンチで、オフェアリス神の言葉を思い出す。
「お前は私で、私はお前だ」
「そうか、私は神と一体ならば、何を恐れることがあろうか?」とヘルメスが奮起した瞬間、天上界から天使の大軍勢が援護の攻勢をかけてくる。
photo:01


そして大魔神をやっつけて終わり。

勧善懲悪で、スッキリ。実に楽しませてくれる映画だった。

当時感じた素朴な疑問。
霊界では(もう死んだ身なので)それ以上の死はないのだが、あれじゃミノス王は永遠に救われないのでは?ということ。

それから今思うと、やっぱり幸福の科学の人たちって
「最後は奇跡が起きてどんでん返しが起こる」というのを期待してるんだろうなということだ。

ピンチになると「エルカンターレ・ファイト!」とか・・・。


先日の記事「奇蹟を期待する幸福の科学」もどうぞ。






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正体を見抜いていたお坊さん

1980年代は幸福の科学を見ていて
これはすごいライバルが出てきたな~と思ってた。

霊界の細かい描写とか、本を読んでいて面白かったし、「100%霊界はある!」と言っているのを聞いて、「そうだ、そうだ」と心強くも感じていた。

いまみたいなスピリチュアルのブームもなく、霊界の話もしにくい時代だった。例えばテレビで霊界ものが取り上げられるとしても、キワモノ的なおどろおどろしい感じだった。

それから、大川隆法氏が東大卒、元商社マンで、ビジネスの話も霊的な視点を踏まえてバンバン語ってるというのも魅力だったな。

1990年ごろだろうか、幸福の科学絶頂のころ、家の法事に菩提寺のお坊さんが来られた。
「最近は変な宗教が流行ってますけどね。お金儲け宗教とか」
幸福の科学のことを言ってるってピンときた。
法事でお酒飲んで、そのままバイクに乗って帰るお坊さんを見て、「何だかなあ・・・、幸福の科学への負け惜しみ?」なんてその時は思ってた。

あれから20年以上たったいま、「お金儲け宗教ね」と見抜いていたあのお坊さん、すごいと思う(笑)



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ゲッセマネの祈りに込められた救世主の思い

$幸福の科学を統一教会の信者が見ると-ゲツセマネの祈り

ゲツセマネの祈りは、救世主イエス・キリストが、オリーブ山のふもとにあるゲツセマネの園で、十字架刑に処せられる前夜祈った祈りである。4福音書すべてに記されている。「オリーブ山の祈り」とも呼ばれる。(Wikipediaより)

「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」

これを、さすがのイエス・キリストも死を恐れたのだと、
人間的な弱さとして解釈する人も多い。

これは、「なぜ予言には両面があるのか」で書いたように
神の願いが成就するかしないかは
神の力だけではなされない、
イエスの力だけでもなされない、
当時の人々が、イエスを待ち望んだ救世主として受け入れてこそ成就する

この原理原則を知ればはっきりとわかる。

「この杯」とは十字架のことである。

「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」

イエスは死が恐ろしかったのか?
十字架にかかるのが恐ろしかったのか?

違う。

イエスは十字架が恐ろしかったのではなく
自らの死によって神の願いが果たされないことを恐れたのだ。

救世主を送ることによって果たそうとされた神の理想実現。
地上のユートピア建設の理想、
それが当時の人々の不信によってくじかれてしまう。

ひとり子の無残な死を目の当たりにするならば、
親である神の悲しみ、絶望はいかほどか?
それがイエスにはあまりにもよく分かるので
なんとか杯を過ぎ去さらせ、生きて神の願いを果たす道はないものか?
と身悶えしながら祈られたのである。

聖書には「額から血の汗が流れるほど祈られた」とある。

弟子たちはイエスの深刻さも知らず、疲れのままに眠っていた。
生命をかけて、死の道をもイエスと共に行こう
という弟子はいなかったのである。

救世主を通してなそうとされた神の計画は
これから何千年延長してしまうだろう?

自分の後を従ってくる信徒たちは
どれほど殉教の血を流さなければならないだろうか?

自分を否定したイスラエルの民は
今後どのような運命をたどるのだろう?

これからも争いの絶えない罪悪の歴史が
どれほど繰り返されるのだろう?

十字架を目前にしたイエス・キリストには
以後2000年間に繰り広げられる悲惨な歴史が
ありありと見えていたはずである。

きっとそのような、
親なる神を愛し、人類を愛するがゆえの、
悲壮な祈りだったのではないか?

ゲッセマネの祈りは、
個人的な悲しみや恐怖ではない、
どこまでも全てに責任をもつ救世主であるゆえの祈りだったのだ。

しかし、わたしの思いのままにではなく、
みこころのままになさって下さい
」という祈りの言葉には、
最善の限りを尽くすが、その結果は神に委ね従うという
最高の信仰の境地が表れている。

私たちも絶体絶命の境地にたったとき
こう祈ってみれば、イエスの心情の一端に触れることができるだろう。


ところで1996年ごろだったか、
幸福の科学の支部で聞いた大川隆法氏の説法、
「私はすでに仏陀、そしてイエス・キリストの悟りを越ええたと自負しております」。

バカも休み休みに言え!(怒)




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敵を愛するということ

イエス・キリストは「汝の敵を愛せよ」と語られた。

(マタイによる福音書5章)
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

「自分に良くしてくれる者に良くしてあげたとしても、それが何の徳になるか。それは信仰を持たない者でもしていることではないか。むしろ敵を愛し、迫害する者のために祈れ」というわけだ。

この言葉こそ、究極の「言うは易く行うは難し」言葉である。

頭では「そうなのか、許さなければならないのか、愛さなければならないのか」
と思っても、感情が許さないのである。

やられたらやり返さなくてはすまない、
復讐心」というものがある。

怒り、憎しみ、復讐心を、どのようにして、愛、許しに変えることができるのか?


幸福の科学にも「人を愛し、人を生かし、人を許せ」という本がある。
愛の発展段階説だ。


これが一番実践できていないのが大川隆法氏本人であることは、誰の目にも明らかである。

(↓↓↓)愛せない者への憎しみと憎悪に満ちた著作の数々。とても自称救世主、地球至高神とは思えない。わかりやすくてイイネ!

    


「敵を愛する、許す」頭でわかっても、心がついていかない、そうできない自分というものを見つめたとき
「天の父が完全であるように完全である」神の子とはほど遠い自分自身を発見する。

そこに罪を発見するし、救世主による救いが必要な自分自身を発見するのだ。

神無くしては絶対に敵をも愛する心はでてこない。神の力、神の愛を求めざるを得ない人間の限界線である。


こんな実話がある。
1999年4月20日、コロラド州コロンバイン高校で2人の生徒が銃と手製爆弾を校内に持ちこみ、教諭1人と12人の生徒を射殺、28名を負傷させ、犯人はその場で自殺するという大事件が発生した。

その事件で娘を亡くしたデラン・スコット氏のインタビュー。

娘レイチャルの死後、彼女の「愛するとは」という愛の定義を書いたレポート用紙をべットの間に見つけた。死ぬ1ヶ月前に書いたものだった。

その「愛する」行為の最初が「許すこと」とだった。彼女は、イエスを心から慕っていたクリスチャンだったので「許すこと」は、キリスト教の教えによるものだ。

父親スコット氏は、自分の力ではとうてい犯人たちや事件を許すことはできなかった。特にレイチャルの弟は、机の下で事件を目撃したため、悪夢とトラウマの中で「許す」ことがとても困難だった。時間もかかった。

しかしスコット氏は娘の意思をついで「ゆるす」選択をした。「娘は、自分たちが怨みにより、人生を破壊してほしくないだろう」と感じたのだ。

その過程で、許せない自分にぶちあたり、弱さを自覚した。そのことにより「ゆるす力」が次第に神、キリストにより、家族全員にあたえられていったという証だ。

何度も何度も「ゆるそう」と身もだえしながら、そこに神の臨在を感ずるようになった。そして「ゆるし」が自分のなかで「揺るがないもの」になっていった。


スコット氏は2002年8月、下院司法委員会の公聴会に招かれスピーチをするようになる。誰もが「彼はきっと銃の存在に憎しみをぶつけ、NRA(全米ライフル協会)を非難するだろう」と思っていたが、彼のスピーチは、まったくおおよその予想を裏切るものだった。

「人類最初の暴力はカインがアべルを殺したことに始まります。悪いのは、カインが使った『棍棒』ではありません。カインが犯人であり、彼の心の中にその罪がありました」

「わが国に、いったい何が起きたというのですか。我々は神を愛することを拒否し、憎しみと暴力の扉を開けてしまったのです。そしてコロンバインの悲劇が起こったのです。政治家はすぐにNRAを攻撃します。また個人の自由を制限する法律を作ろうとします。我々にそんな法律は必要ありません」

「悪は私たちの心の中に存在します。政治的なポーズや、自由を制限する法律では、このような悲劇をくいとめることは出来ません。私の息子クレイグは学校の図書館でそのテーブルの下に横たわっていました。彼の二人の友人が彼の目の前で殺害された時に、彼は学校で祈ることを躊躇しませんでした。」

「コロンバイン高校で、学生たちが捧げた多くの祈りを、無駄にさせないでください。神から与えられた神と交流するする権利を否定するような、神聖なるものを軽視するような法律を持ったままで、新たな千年紀に突入しないでください。NRAを攻撃している人たちよ、 私はあなたがたに、心から挑戦をします。
最初に石を人びとに投げつける前に、まず自分の心を調べてみてください!そうできれば、私の娘の死は無駄にはならないはないでしょう! 」

イエス・キリストの敵を愛するという伝統は、今も確かに息づいている。

スコット氏のインタビュー(英語です)




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奇蹟を期待する幸福の科学

どのようにして理想社会が実現するのか

それがとてもあいまいというか、奇蹟を期待している幸福の科学。


たとえば マンガ「希望の革命」。
読んだのはもう10年以上も前。

最後のどんでん返しのシーン。

総理大臣がくるっと回れ右をしたら
正心宝のペンダントを首にかけていた。
「私も正会員なんですよ」と。

それで一発逆転
幸福の科学の主張が全面的に認められた、
記憶は薄れたが、たしかそんな設定だった。

総理大臣が正会員
それで一件落着。

あんたら、そんな甘いこと期待してるんか~!
その途中のプロセス、全部省略してるじゃないか~!
と感じたことを覚えてる。

水戸黄門じゃあるまいし。



どの映画もそう。



映画「仏陀再誕」も空野太陽が説法するだけで
大衆が「ははーっ」と手を合わせて拝む場面が出てきた。

あり得ない。

口先だけでは絶対に人の心はつかめない!

全然「仏陀再誕の証明になっていない。

近年の幸福の科学の動向を見ていると
「宇宙人がいる」「宇宙人が来る」
「中国が攻めてくる」とやたら強調している。

「宇宙人来てくれ~。
中国よもっと攻めてきてくれ~
そうすれば私たちの主張が正しかったと証明できるから」。


そういう叫びが聞こえてくるようだ。

「それによって仏陀の証明ができるから」と。

そんなんでは仏陀の証明になりません!!

「みんないっぺんに仏陀を信じるようになるから」

なりません!!


イエス・キリストの伝道を思い出してみれば・・・
弟子の一人一人を分け隔てのない愛で愛して、
その愛に感動して弟子達はイエスについて行った。

人の心は、愛されることによって
感動してその人に屈服する。
喜んでついて行こうとする。

イエスは「汝の敵を愛せよ」とまで言った。

イエスは、自らに槍をさし殺そうとするローマの兵士さえも許した。
「主よ、彼らを許し給え。彼らは何をしているのかわからないのです」と。

敵をも愛する愛によってはじめて、怨みの心も解ける。
それなくして、憎み合う者たちがどのように和解できるというのか?

しかし、「敵を愛する」
人間にとってそれほど難しいことはないのだ。

幸福の科学のいうユートピア建設、世界宗教への道、
それはきれい事ではない。悲惨な道だ。
血と汗と涙の、もっともっと泥臭い道だ。


敵を愛するということ」の記事もどうぞ。



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なぜ予言には両面があるのか?

旧約聖書には
イエス・キリストが王の王として天国をつくるという予言と、
人々に捨てられ十字架につくという両面の予言がある。


十字架に架けられることを暗示した予言の例。

イザヤ書 53章 
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

栄光の王となるという予言の例。

イザヤ書 11章 
ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。

旧約聖書は、預言者が神から啓示を受けて語った言葉の集積である。

なぜ神の予言には両面の予言があるのか?
神は未来を予測することができないのだろうか?

神の計画が成就するか否か、そこには神の責任と人間の責任があることを知らねばならない。

イエス・キリストを救世主として送ることは神の責任であるが、そのイエスが受け入れられて「王の王」となるか、世に捨てられ十字架にかかるかは、神も干渉できない人間自身の責任だったのだ。

もちろん神は、人類がイエスを救世主として受け入れ、栄光の王として
そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる」ことを願われたはずである。

人類はイエスを信じて、イエスと共に自由、平和、幸福な世界をつくっていくのか、それともイエスを信じることができずに、憎しみと闘争に満ちた暗黒の歴史を続けていくのか?

しかし神の願いは果たされなかった。十字架にかかるという予言が成就された。

イザヤ書53章より
「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。 」

映画「パッション」では、イエス・キリストが十字架へ向かう最後の一日を聖書に忠実に克明に描かれた。ラストシーンは神の涙であった・・・。

イエス・キリストの救世主たるすさまじい生き方。
それを見つめる親なる神の、悲しい思いはいかばかりか?

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ところで、自称救世主の大川隆法氏の生き様はいかがであろうか?
あまりにもレベルが違いすぎるではないか。

たとえば評論家とか作家とか、あるいはいち真理の探究団体の主宰であれば何にも言わないけれど、自分を神様に祭り上げて「我は地球の至高神なり。救世主なり。我を信ぜよ、我を疑い不信する者は堕地獄だ」などと言うのはとんでもない過ちでは無かろうか?


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幸福の科学はなぜ上から目線なのか?信じられない

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イエス・キリストが十字架に架かる前の晩、つまり最後の晩餐の場面において、イエスは急に弟子たちの足を洗い始める。

食事の前に足を洗うのは、当時奴隷の役割であった。驚く弟子たちはためらって断ろうとする。

(ヨハネによる福音書)
こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。

イエスは明日十字架につくという前の晩に、自らの姿でもって、救世主として、そして人としての生き様を示されたのだ。

「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。」

これにならって、キリスト教では犠牲と奉仕を旨とする。


統一教会では、「父母の心情、僕の体」と学んだ。

親は子どものために喜んで犠牲になろうとする心を持ち、行動としては僕のように奉仕する姿として表れる。

誰のためにもそういう姿勢で接しなさいという教えである。
親なる神様がそういう方であり、イエス様もそのような方であった。

文鮮明師も米国で1年6ヶ月の刑を受けた時、刑務所での模範的な生活態度で1年1ヶ月に減刑された。

出所する頃には、囚人たちから「ファーザー」と呼ばれるまでになったという逸話がある。

「父母の心情、僕の体」とは統一教会の伝統であり、目指すべき人格の目標である。

弟子の足を洗ったイエス・キリスト。こんなエピソードが、大川隆法氏にどれほどあるだろうか?

口を開けば、そこにいない人への悪口三昧とか、
目の前で、テーブルの上に足を置きふんぞり返っていて驚いた・・・という元秘書長の証言は読んだことがあるが。

世界宗教をめざす幸福の科学。
それは結構なことだが、キリスト教会以上の犠牲と奉仕の実践がなければ、世界に出ても圧倒されてしまうのは明らかである。

ましてや、「私は9次元だ」とか「如来だ」「菩薩だ」とか言って威張り散らして、上から目線で説教垂れるなんて、もってのほかだ。


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恐怖心から退会できずに苦しんでいる信者さんへ

恐怖心から退会できずに苦しんでいる信者さんが多いと聞く。

このブログでも以前に「誤った霊界観で苦しんでいる幸福の科学信者」として書いたことがあった。


「仏説降魔経」により、幸福の科学の教えや活動、さらには教祖に疑問をはさむことが「阿鼻叫喚 堕地獄への道 避けがたし」と教えられていることが恐怖の大きな原因なのだ。

これについて、「みろたん」さんが「幸福の科学をやめるまでの葛藤」として
ブログに率直な退会プロセスを書いてくださっている。

http://s.ameblo.jp/purasenta123/entry-11461632509.html

とても参考になると思う。



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疲れた者、重荷を背負うものは私のもとにきなさい

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

マタイによる福音書の11章。あまりにも有名なイエス・キリストの言葉。
キリスト教会の入り口に、この聖句が掲げられているのを見たことがある人は多いと思う。

ふとしたことでこの聖句が目に止まり、涙がでそうになった。

重荷とは何であろうか?
仏教的に言えば「四苦八苦」というような、人生の思うようにならないことがあるだろう。

生・老・病・死の四つの思うがままにならないことに加え、
愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離すること
怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと
(Wikipedia)

これらの苦しみ。
しかしそれ以上に人生の重荷になるものがある。
それは、自分自身の良心の呵責である。

忘れたようでも忘れらない。いっときごまかせたとしても、ごまかしきることはできない。
人が気づいていなくても、自分自身はよく知っている。
罪にまみれていたとしても、本当の自分はそうではない!という魂の叫びがある。
誰を責めるのでもない。そのことによって責められるのは自分自身だからだ。

この良心の呵責を、誰が救ってくれるのだろうか?

$幸福の科学を統一教会の信者が見ると

それは救世主キリストである。

罪なき方として生まれ、神から許す権限を授かった方である。
罪に勝利された方である。邪心のない方である。
その方の許しによって、初めて自分自身を許すことができる。
はじめて良心の呵責から解放される。

それは自らに新しい生命を与えられたのと同じである。

そして心の底から、二度と過ちは犯すまい、
良心の呵責に苦しむような生き方はするまい、
と自ずと誓うようになる。

良心にしたがって、
影のない、隠し事のない人生を堂々と生きることが出来れば
それが最高に幸せな人生であろう。

恐怖も不安もない。平安と喜びと希望がある人生だ。
まさに「魂に休みが与えられる」人生だ。


幸福の科学は仏教なので、このようなキリスト教的な世界はわかりづらいかもしれないが・・・・。

そんな考え方もあるのかと、少しでも参考になれば幸いだ。


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生まれ変わりではなく、使命であり協助現象

「大川隆法氏が洗礼ヨハネだ」というのは
生まれ変わりという意味ではない、ということを前回書いた。

仏教では輪廻転生を説き、それを信じている人も多い。
ことさらそれを否定するつもりはない。

しかし、何かにつけて「誰々の前世は◯◯」と公言し強調する幸福の科学には
輪廻転生説の悪い面が如実にでている。

再婚した奥さんの紫央さんは「坂本龍馬の生まれ変わりだ」と言ったり、
元妻のきょう子さんはアフロディーテ、文殊菩薩と持ち上げていたのが、
やっぱりそうじゃなかったと、
いつの間にかイエスを裏切ったユダとなったり、
もはや支離滅裂で、これによって教祖に不信感を持つ人も少なくない。

最近では、1990年代に「鳩山邦夫氏が豊臣秀吉だ」と言っていたのを覆したり。


「大川紫央さんが坂本龍馬の生まれ変わり」という点ではどうだろう?
本人は対談のなかで「そういわれてみれば確かにそのような気もする」みたいなことをおっしゃってた。

生まれ変わりとは何か?
もし自分に坂本龍馬のような使命があると思えば、坂本龍馬が霊界から力を与え、インスピレーションを送り、何かと助けてくれることは十分あるだろう。
それが一見生まれ変わりのように見えてしまうのだ。

しかし「自分は坂本龍馬のような使命があるのでは?」と感じて行動する人は一人だけでなく、たくさんいるはず。

龍馬に心酔して武田鉄矢はグループ名に海援隊とつけたくらいだし、ソフトバンクのの孫正義社長は大の龍馬ファンだ。「維新」という言葉を好んで使う政治家たちもそうじゃないかな?

熱心に龍馬を思えば龍馬が霊的に尋ねてくることはあると思う。
彼らが各分野で活躍することを、龍馬が霊界から応援しているかもしれない。

「生まれ変わり」と断定すれば、それはその人一人に限定されてしまう。

ということで、結論。
生まれ変わりはない。
前世はない。
あるのは霊界からの協助
その対象は一人に限らない。

↓ ↓ 「わしは熱心な者に応援はしちょるが、誰にも生まれかわっとらんぜよ」とでも言っていそう。
「俺は俺、あんたはあんた、しっかりやれ!」と。
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洗礼ヨハネは大川隆法だけではない

神は救世主を地上に送るのに
何の準備もなしに送られることはない。

イエス・キリストを送るにも
2000年間ユダヤ人を選民として教育し、メシヤ降臨の予言をし、
最後は洗礼ヨハネという人物を通して
何とか人々がイエスをメシヤとして受け入れることができるよう準備された。

神は再び救世主を送られる際にも、
準備をなさって送られるはずであり、
洗礼ヨハネの使命を持った人物は各分野に現れる。

「主の道を備えよ。まっすぐにせよ」という使命を持った人物であり
彼こそは救世主ではないかと、多くの尊敬と支持を受ける人物。


ところで、大川隆法氏は洗礼ヨハネの使命を持っているというと、
幸福の科学の信者、元信者の方々は
「じゃあ前世は洗礼ヨハネということ?」と思われるだろう。

そこがいかにも幸福の科学的発想だ。

生まれ変わりはない、
前世はない、という立場からも十分説明できる。
それはあくまでも
同じ使命をもつ、同じような状況に立たされる人物、ということだ。

だから洗礼ヨハネの使命を持った人物は、無数に存在する。

極端に言うと、ある団体の長たる者が救世主と同時代に生きているとするならば、その者はすなわち洗礼ヨハネとも言える。

たとえば10億人のカトリックの頂点にいるローマ法王なんかは、その代表だろう。
あるいは世界の最強国家であるアメリカ合衆国の大統領もそうだ。

そういう人物が「来るべき救世主はこの方です」と証しするならば、どれだけのスピードで神の救世事業が進むだろうか。

キリスト教の歴史においては、ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝が313年公認した。
コンスタンティヌス大帝の母親がクリスチャンであり、晩年に大帝自身も洗礼を受ける。そしてテオドシウス帝が392年、キリスト教をローマの国教とした。

皇帝がクリスチャンになれば、その国民に対する影響は絶大だったろう。クリスチャンを約400年にわたって大迫害したローマであったが、ついにはキリスト教が国教となった。

特に救世主と同時代に生きる人は、あらゆる人が、洗礼ヨハネと同じような立場に立つ。

そして、救世主に正しく出会い、証しするのは簡単ではないし、イエスをいったんメシヤとして証した洗礼ヨハネであっても最後まで信じて、ついていくことは難しかった。


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